「東北」という神秘

(西洋の)科学史、音楽史を研究し深めていくと、東洋(とくに日本)が世界的にとても特殊な場所であることに気づく。西洋(欧米)では、科学が宇宙自然の仕組みや法則、真理を理解する手段として用いられた。そして西洋では(キリスト教の影響もあり)、「神」とは、この宇宙自然、万物を創り上げた「創造主」のこと、またはそれらを司る法則や真理(摂理)を指す。物理学者も、数学者も、哲学者も、芸術家も、その法則や真理、美を発見し、創造主に近づき、唯一絶対の創造主(神)の意図を解き明かすことにエネルギーを注いだ。

 ところが、日本に来ると、この「神」という言葉が指す意味が少し変わってくる。

日本でいう「神」とは(これは私が感じたことだが)、創造主、法則や真理というよりも、「その場(空間)そのものと、そこに流れるエネルギー(気配)のこと」を「神」と言っているのではないだろうか。「八百万(やおよろず)の神」と言われているように、日本では山、川、滝、岩、石、木にも、神が宿ると昔から信じられてきた。また日本では、「神」という言葉は、特別な聖人や宗教指導者以外の人物に対しても、その人への尊敬を込めて用いられる。それは、宇宙そのものであり、自然そのもの、「場(空間)」そのもの、その人が放つオーラや存在そのものの気配、波動なのである。日本人にとって「神」とは、「解き明かすもの」ではなく、「感じるもの(場、気配、存在そのものがもつ波動)」なのではないか。それは、頭で理解するものではなく、心で感じなければならない。

逆に日本人にとって科学とは、解明するものではなく、学ぶもの、そして生活を豊かで便利にするために利用するもの、という意識が強いのではないか。だから、科学(Science)と科学技術(Technology)がしばしば日本では混同され、同じような意味で用いられる。

日本では、自然、宇宙はもともとそこに存在するものであり、自然とともに生活(共生)し、その恵みをいただくものであるから、自然を解明する必要がない。もっと言えば、解明する、という発想がそもそもない。科学研究において、ほかの諸外国に比べて、基礎研究の土壌が日本ではあまり育たないのは、こうした神、自然に対する価値観、宗教観があるからなのかもしれない。

日本人のこうした神、宇宙、自然に対する考え方(世界観)は、どこからきたのか。

それは、はるか昔、縄文時代ではないかと私は思う。東北地方(特に秋田、青森、岩手などの北東北)には数多くの縄文遺跡が残り、白神山地を代表するブナの豊かな森が広がっている。また、同地域では今もマタギとよばれる人たちが暮らしている。(2021年、北海道、北東北の縄文遺跡群が世界遺産に登録された。)

東北は不思議な場所である。とくに平泉以北と、それ以南では全くと言っていいほど様子が異なる。日本人の神に対する考え方の原点、「場の空気(気配)」が、東北には今もある。それは言葉にはできない。実際にその場に行って「体感」してきてほしい。まさに神秘というほかない。地層が、古い地層ほど下に沈み、新しい地層ほど上に積みあがるように、文明も、「場」も、新しい文明ほど移り変わりが激しい。たまに、古い地層が表面にむき出しになり、大昔の原型が保存されているような場所がある。東北(平泉以北)は、まさにそんな場所なのである。時代の流れや、風化、侵食にさらされることなく、縄文(神代)の場の気配、自然が今なお息づいている。これは奇跡としか言いようがない。大多数の日本人や、日本に来る外国人の多くは、京都、奈良が日本の歴史を学ぶ上で重要と感じているが、その大元、原型は、東北(縄文)の場と気配にあるのではないだろうか。ぜひ、その場の気配を感じてきてほしい。日本とは何か、日本人とは何者か、宇宙、自然、神とは何か、人間とは何か、自らの存在理由など、感じるうえで、東北は、とても重要な場所である。

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